キング牧師のゆだねる祈り

イエス・キリストは、目的、特に神様の願う目的を成し遂げるための強い信念、そして信仰を持っていました。例えば、以下は彼が敵に襲われる前に神さまに捧げていた祈りです。

「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。

ルカによる福音書 22:42

神様が願われること、神様の目的を御心と言います。
イエスさまは、何よりも神さまの願いを成し遂げようとする意志がありました。
自分の生死が関わる極限の状態の中でも、自分のやりたいようにやるのではなく、神さまにゆだねることができました。

今回は、イエスさまのように目的を成そうと神さまにゆだねて生きた一人の人物を紹介します。

1950年代前半、アメリカ南部のミシシッピー州のマニーという町でひどい事件が起きました。北部のシカゴから来た黒人の少年エメット・ティル少年が、白人女性に声をかけたために白人男性によって殺害されたのです。

裁判が行われましたが、ティル少年を殺した白人男性に対しては無罪が言い渡されました。アメリカ全土に衝撃が走りました。
アメリカにはこのようなどうしようもない差別があったのです。暴力的な差別が平気で行われるアメリカで、「非暴力」という武器を手に差別へ闘いを挑んだのがマーティン・ルーサー・キング牧師です。

白人女性に声をかけただけで殺されるような差別の中で、差別と闘わなければならない勇気というのは、私たちには想像しがたいものです。
彼はいつも命の危険と隣り合わせでした。毎日のように続く脅迫電話。そしてあるときには、家に爆弾が投げ込まれたことさえありました。

キング牧師はそんな差別に対して勇敢に戦ったのです。
しかしそんな彼も、どうしようもなく臆病になってしまうときがありました。

脅迫は続き、ほとんど毎日、白人たちが彼に対する計画を立てている話を、それとなく聞いたといって仲間が彼に警告してくれていました。
ほとんど毎晩、彼は明日の不安を胸にいだいて床についたのです。
そして夜が明けると、彼は妻とかわいい娘を眺めながら一人思ったのです。

「いつか彼らは私から引き離されるかも知れないし、私が彼らから引き離されるかも知れない。」

1月も末近いある晩、彼は一日中忙しく働いて夜遅くに床につきました。
彼がうとうとしかかったとき、突然電話のベルが鳴りました。電話口からは怒気を含んだ声が聞こえてきたのです。

「聞け黒ん坊 ! ! お気の毒なことだが来週おまえがモントゴメリーにやってくるまでに、俺たちは欲しいものをことごとくおまえから奪い取ってしまうだろうぜ ! !」

電話は切れたのですが、眠ることはできませんでした。
彼の心の底の一切の恐怖が一度に表面に飛び出したように思われました。
彼はすでに飽和点に達していたのです。それでベッドから飛び起きて床の上を歩き始めましたが、ついに台所へ出かけてコーヒー・ポットを温めました。

彼は一切を断念しようとしました。
前に置いたコーヒーカップには触れず、どうにかうまく、ひきょう者のように見られないで、彼の運動から抜け出す方法がないかあれこれと考え始めたのです。

そして勇気がすっかりくじけ去り、疲労した状態の中で、この問題の解決を神さまにおゆだねしようと決心するようになりました。
彼は両手で頭を抱え込み、台所のテーブルの上に身を伏せて声高く祈りを捧げたのです。
この日の深夜、神さまに語った言葉は今もありありと彼の記憶の中に残っています。

「私は、ここで私が正しいと信ずることのために闘っています。しかし、今私は恐れているのです。人々は私の指導を求めています。そしてもし、私が力も勇気もなく彼らの前に立つならば、彼らも勇気を失うでしょう。私の力は今まさに尽きようとしています。今私の中には何も残っていません。私は1人では到底立ち向かうことのできぬところに来てしまいました。」

この瞬間、彼はあることを感じました。こうした経験は未だかつて決してなかったことでした。
あたかも、「正義のために立て。真理のために立て。しからば神は永遠に汝の傍らにいます
であろう」という内なる声で静かな約束を聞くことができたように思われました。

それと同時に恐怖は消え始めました。
不安は消え去り、たとえ何者が来たとしても立ち向かう覚悟を決めることができたのです。

この、普通では考えられない状況で、それでも神さまにゆだねるキリストの精神は、大きく歴史を変えることができるのです。