「半分しかない」と「半分もある」

ものごとのとらえ方ひとつで、小さくても運命が変わる瞬間があります。

朝食で、子どもが手を滑らせてコップに入ったジュースをこぼしたとしましょう。そのとき、親はどのように対応するでしょうか。

「何をしているんだ、気をつけなさい。こんなにこぼして、あと半分しかないじゃないか。しっかりと持っていないからそういうことになるんだ」

こんな叱り方をすると、せっかく家族で楽しく過ごせたはずの朝食も、子どもにとっては涙のまじった悲しい思い出になるでしょう。一方で、こんな言い方もできます。

「ジュースをこぼしてしまったのか。でもまだ半分も残っているじゃないか、よかったな。コップはしっかりと持っているんだぞ。次は気をつけよう」

内容は同じことですが、言われた子どもの気持ちはどうでしょう。最初は悲しんでいた子どもの顔も、しだいにうれしそうな笑顔に変わっていく様子が思い浮かびます。

「半分しかない」と「半分もある」の受け止め方の違いは、どこから出てくるのでしょう。それは、聖書の人物にヒントがあります。

聖書で中心的な人物のひとり、ヨシュアはよく神様に従う人物でした。ヨシュアを含むイスラエルの民たちは旅をしながら、ある目的地がありました。それがカナンの地でした。そこは、神様が行こうとおっしゃった場所でした。

聖書の民数記13章、14章のあたりを見てみるとその状況がよく描かれています。

旅の途中、ヨシュアを含む12人がカナンの地に偵察に行くことになりました。偵察の結果、12人のうち10人は「その地にはほかの種族がいっぱいいて、どんな種族でも、そこに行って住もうとすると、みんな彼らに撃たれて死ぬだろう」と言いました。

彼らは肯定的に見ることをせず、否定的に見て話したのです。

そして、ただヨシュア、また、カレブだけが「カナンの地は本当に美しい地だ、神様がくださった祝福の地だ」と肯定的に報告しました。

全く同じものを見た者の中で、良い評価、また、悪い評価をする者でわかれたのです。偵察に行った残りの10人は現実そのままを見ました。

自分のことだけを考えた見方で、 自分で考えたとおりに報告しました。

そして結局、偵察に行った者の中では、良い評価をしたヨシュアとカレブがカナンの地に行くことができました。それだけでなくヨシュアは、懸念していたほかの種族からもカナンの地を奪い返すようになったのです。

悪く評価した者たちと良い評価をしたヨシュアは、何が違ったのでしょうか。

悪く評価する周囲の声をもろともせず、その肯定的なとらえ方ができた根本の理由としては、自分だけの視点ではなく、ひとつ異なる神さまからの視点でものごとを見ていたからではないかと思いました。

冒頭のエピソードなら、悪気なくジュースをこぼしてしまった子どもの視点であり、ヨシュアにとっては、カナンの地に行くことができるよう計画した神さまの視点といえるでしょう。

見たものを見たままとらえることは簡単に早くできます。しかし、楽なように思える方法が、逆に自分の進む道をじゃましてしまうこともあります。

小さなことのようですが、この違いが、人生を生きていくときに大きな違いになっていくのではないでしょうか。