自分が本当に愛されているのかわからないとき

神様は、自分自身をどれくらい愛しているのかよくわからないことがありますよね。

どのようにしてわかるのかというと、
自分が神様を愛したときに初めて、今まで神様がどれだけ自分を愛したのかがわかるのです。

だから、どれほど今まで自分が愛を受けたのかを知るためには、必ず自分が愛さなければなりません。

いつか、神様の愛がわからずにとまどう人がいました。

「あしあと」というマーガレット・F・パワース氏の詩を紹介します。   

ある夜、わたしは夢を見た。                        

わたしは、主とともに、渚を歩いていた。                  

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。              

どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。           

一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。           

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、              

わたしは、砂の上にあしあとに目を留めた。                 

そこには一つのあしあとしかなかった。                   

私の人生で一番つらく、悲しい時だった。                  

このことがいつも私の心を乱していたので、                 

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。                 

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、               

あなたは、すべての道において、私とともに歩み、              

私と語り合って下さると約束されました。                  

それなのに、私の人生の一番つらい時、                   

一人のあしあとしかなかったのです。                    

一番あなたを必要とした時に、                       

あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、                   

私には解りません。」                           

主は、ささやかれた。                           

「私の大切な子よ。                            

わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりしない。       

ましてや、苦しみや試みの時に。                      

あしあとが一つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」 

マーガレット・F・パワーズ    

神様が、見えないとしても自分をどれほど愛しているか感じることができたでしょうか。

また聖書に、愛について詳しく描かれた箇所があります。

コリント人への第一の手紙13章4節から8節
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。」

真の愛は妬むこともなく、柔和な心で接します。
人を愛することを、自分を愛するよりもっと重んじる。これが神の愛といえます。
愛の前では異言も預言も何もいらない。最後は愛ですべてが廃されるということです。

神様はこのような愛で愛してくださっているし、
自分自身もこのような愛で愛することができるのですね。